うばわれていく
019:熱を失うからだ
紫煙が天井で凝る。組織は半ば地下的であるから設備も行き届かない。喫煙室を設けたのはいいが換気が十分ではないのだ。慢性的に凝る煙草の煙と掃除が緩慢なこの部屋に長居するのは珍しい。どうしても喫みたい輩が息を継ぐように出入りする。喫み終わればさっさと出て行くし混雑すれば引き返すものもいる。卜部は何度か通いつめて手隙の時間帯を割り出した。もともと密やかな調べ事には長けるから苦にならなかった。必要があれば暗号と符牒だけで情報をやりとりする。喫むだけなら適当に来る。手隙の喫煙室にはいつの間にか逢瀬の縛りが生まれて卜部はそれに引っ張られるようにして足を運んだ。明確な約束事はない。ただ顔見知りと呼ぶには厄介で孕みようもない当て所ない付き合いであるのも心得ているつもりだ。
扉が軋む音を立てて開く。顔だけ向けると顔を出した藤堂が和やかに笑んだ。煙草喫みでもないのに喫煙室へ来るのはその頃合いに空くと覚えたからだ。表立って主張ができないつきあいだ。藤堂は卜部の直属の上官だし、階級が違うだけで同じ場にいる自然さは消えてしまう。色仕掛けを当て込んでいると勘違いされれば僥倖だ。いくら軍属が性別に偏りがあり行為についての知識が蔓延していても、真っ当とはいえないと当人同士が承知している。それでも卜部が黙って場所を開ければ藤堂はそばへ寄ってくる。藤堂は黙って箱から一本抜くと火をつけずに咥えた。藤堂の指や唇のちょっとした蠢きに目を惹かれる。欲目だと判っていても藤堂の指先のなめらかな動きやシャンとのびた姿勢は綺麗だと思う。藤堂は武道を教えるだけの腕と実績を持っているからそれらの煌めきは根底から香る本物だ。藤堂の道場にも何度か顔を出した。張り上げる声は子供相手であるから控えめでも叱るべきには叱る珍しい人種だ。この国の首相の子息という硝子玉さえ上手く転がす。なつかれているようで卜部と同じように顔を出す朝比奈としきりに対立する。朝比奈が威嚇するのはたぶんその子供と自分が同類だと判っているからだろう。卜部は明確な主張はしないし流されやすいと自認する。それでも顔を出せば藤堂が嬉しげにするからしばらく通った。自己防衛手段が必要だとも思っている。卜部は丈ばかりがあって目方がない。飄然としているから見くびられた挙句の悶着も何度も起こす。
ギリギリまで喫んだ煙草が燃えそうだ。気づいた藤堂が体を寄せてくる。煙草の先端が触れ合う。藤堂が息を吸うと微音を立てて火がついた。一口だけ喫んだ藤堂が卜部に煙草をよこす。卜部は吸い殻を灰皿へ突っ込むと藤堂の指に挟まれた煙草を食んだ。触れた瞬間の応えが違うのは藤堂の口にあったからだと思っても焦りも嫌がりもしない。投げ出す卜部の手に藤堂の手が重なった。
「今日、時間が出来たから」
卜部の口元が笑む。うそばっか。どうせ蜻蛉返りだろ。食事と睡眠くらいは出来る。卜部は虚ろに開いた口から煙を吐いた。
「あんたの食事は美味いから好きだよ」
灰皿へ灰を落とそうと煙草を抜く。藤堂の体が傾いで唇が重なる。今日はどうやらうまい飯にありつけるのだと思った。
甘党の卜部を気遣って和物や煮付けが甘い。言葉少なであっても互いがいることに意味がある。藤堂の私邸は平屋で広い。庭まであるから大層なものだと思えば何代にも継いでいるから良く判らないという。藤堂の家は私が終いでいい。気負いも当てつけもなく言って笑う藤堂を小突く。くっくっと笑いが漏れてさらに小突こうとする手首や肘を掴まれる。床と違って畳はそのまま寝そべることが出来る。卜部は襟を開かれ膝を掴まれる。仰臥したり俯せたりする合間に腕を絡めたり解いたりする。
「何焦ってんの?」
「なぜ?」
「脈が早いぜ」
藤堂の笑んだ吐息が卜部の耳朶でわだかまる。背中へひたりと合わせる皮膚は融けるほど熱い。藤堂の先端がどこにあるかも判らない。
「お前だって早い」
ひやりと冷たいのは藤堂の耳だ。卜部は俯せたまま肩を揺らして笑った。開いた脚の内股を撫でられる。体勢を変えるようにして体を捻る。息を継ぐような荒くて短い口付けにさえ藤堂が笑ってくれる。
「巧雪」
黒蒼の短髪が藤堂の指で優しく梳かれて卜部は体内の拍動に身震いする。
卜部は濡れ髪のままメモ用紙へ先に出る旨を書き殴る。電話の横や帳面へ綺麗に綴られている藤堂の字と比べると見劣りするがこういう性質だから仕方ないと納得する。真っ当ではないつきあいであることや世間体への配慮として同伴出勤するわけにもいかない。藤堂を待っても待たずとも時間をずらさなければならないから卜部は自分からするりと発ってしまう。藤堂が先立つのは卜部の私宅の時くらいだ。どちらの家かで順序を決める。暗黙の了解が成り立った。
手荷物を携えて時間を算段する。一度戻るか。手間になるが家に置きたいものや交換が必要な物もある。卜部はまっすぐ自宅へ向かった。乗り継いだり歩いたりして自宅が見えてくる。藤堂の私邸ほど鄙ではないが繁華街でもない。地元の人間しか立ち寄らないような場所へ居を構えた。目的を持たないと見えないくせに住人の入れ替わりはそれなりに頻繁だ。独り者が多いから駅前とそれ以外の騒がしさは明確に違う。卜部の手荷物は増えている。藤堂が甘いものが好きなら持って行けと甘煮や佃煮を寄越した。卜部が単身住まいであることも了解している。胡桃や雑魚の佃煮は食事の用意が面倒なときの常備菜になる。甘煮は藤堂がその時時でこしらえる。貰い物があるときだけだと笑いながら手間のかかる惣菜をよこす。卜部はいつもありがたく頂戴する。
ふと足が止まった。しばらく窺うように息を潜める。うなじがちりっと灼ける気がした。戦闘機越しであってもそれなりの鍛錬を積んだ身として殺気くらいは感じ取る。不穏なことが起これば気配を感じるしなんとなく足が向かない場合も多い。そのひたひたとした悪意は明らかに卜部の背後へ迫っていた。その尖りを隠そうともしない悪意は棘のように卜部の肌をさす。濡れ髪が濡らすうなじに背筋が粟立つ。数を数えながら一気に後ろを振り向く。シンと凍る闇が降りていた。襟巻きや外套がまだ入用な時期だ。しばらく闇を睨んでいたが過剰気味なのだと決着をつける。瞬間、胴を薙がれてもんどり打った。反射的に受け身を取っても四肢や顔に擦過傷を負う。顔を同時に守るように手を上げた。がん、と膝が入って卜部は再度地に伏した。手が燃えるように熱い。鼻や口元を確かめるが出血はない。歯を食いしばれずに食んでしまった口腔内だけがしびれる。口を覆われ引き倒される。引きずり込まれた闇の虚で卜部は陵辱された。抵抗すれば容赦なく拳が振るわれる。しかもそれは顔や四肢ではなく胴部にばかり集中する。食事をしていたことが災いした。卜部が痙攣して嘔吐するのを押さえつけられた。
「藤堂中佐の情人らしいぜ」
その一言が全てだ。
脚の間から白いものが溢れかえる状態で襲撃が去っていく。虚ろにあいた死角には誰も目をやらない。卜部はなんとか体を起こすと散らばった荷物をかき集めた。無理やり着た衣服は取り繕いようもない。釦が弾けて留め具も壊れている。お釈迦にするしかない。こぼれた荷物の中で藤堂の持たせた惣菜が手酷く踏みにじられている。器まで破壊されている。弁償かな。器の破片だけを拾うと荷物へ突っ込む。のろのろと足を引きずって自宅へ帰る。向かう先が自宅であることだけが救いだった。この状態で藤堂の場所へ転がり込む訳にはいかない。
酒を飲んだわけでもないのに視界が定まらない。ぐわりと天を仰いだかと思えば地面が鼻先をかすめる。酔漢のように不規則な動きで卜部はなんとか玄関まで辿り着く。扉を閉めて鍵をかけた刹那に力が抜けた。くずおれて荒い呼気に肩が上下する。体の奥底が裂けるように痛んだ。脈打つ痛みはそれだけに、やすやすと他者に明かせる場所ではない。卜部が一人で始末しなければならない。這うようにして移動する先で電話が鳴った。過剰気味に跳ねる肩と見開かれた目の先で電話のコールが繰り返される。乱れて泥まみれの髪をかきあげる。
惑うように震える指を叱咤して受話器をとった。
「…もしもし」
「卜部?」
明朗な藤堂の声。機械を通してさえ玲瓏と響くその声が。
「いるならいい。書き置きを見たから。ただ少し」
「少し、何」
「…なんでもない。何度か電話をかけたんだが、出なかったから。どうかしたかと思っただけだ。お前は食が細いから」
「…すんません風呂です」
「私の家で入っていたろう」
卜部の体が壁に凭れる。患部は熱を持ち始めている。それ以上にこの体を隅々まで洗浄したかった。殴打と嘔吐で卜部の有り様はひどいものになっている。電話で姿が見えないことに卜部は初めて感謝した。麻痺した思考で何とか言い訳を考える。
「野良犬に、噛まれて」
「医者がいるなら手配するが。大丈夫か?」
「平気です。…あの、拍子に荷物を落として皿が割れちまってんですが」
「高価いものではないし余り物だから気にするな。器が割れたなら惣菜は食べるな。破片が混じっていても大事になる。…破片を拾って怪我でもしたのか?」
「すんません、もう切っていいすか。…眠くて」
手が震えて受話器を持つのも難しい。肩へ挟んで何とか会話する。ほんとうに大丈夫か? 既知の医者なら診てくれるから呼ぶか? あんたのかかりつけが俺を診てどうすんすか。ほんとうに大丈夫、だから。
「切って、いい?」
座り込んでしまった体が重い。ずるずると壁をこすりながらくずおれる。
「…時間を取らせてすまない。ゆっくり休め」
気にしたふうでもない藤堂があっさり言って通話が切れた。受話器から聞こえる切断音に何とか元の位置へ返す。弾かれたように風呂場へ飛び込んだ。吐きながら体を洗う。石鹸を使いきった。シャワーを固定して頭の上から降り注ぐようにしたら力が抜けた。初めて服を脱いでいないことに気づいた。泡を服の上からなすりつけていた。服と言っても修復は無理だしもはや布地に近い。所々へ肌が露出し、それは裂傷や殴打の痕を伴う。喘ぐように張り詰める喉を攣らせて卜部は胃液を吐いた。吐瀉物の微温さとシャワーの冷たさに臥せってしまいたくなる。シャワーが冷水なのだと遅れ馳せながらに気づいた。涙を流した自覚はなかった。濡れそぼった体では吐瀉物さえ一緒くたになって判らない。口にあふれる苦いものを吐こうとして嘔吐いた。不意打ちを食らった筋肉が攣りはじめている。俯けた耳裏や頬をなでて水滴は頤から垂れる。水浴びには早いと思うのに感じない。平素であれば手を洗うだけで芯が通ったような痛みを発する水とは思えないほど何もなかった。濡れ髪は冷たく凍って泥混じりに汚した水を流す。その渦を卜部の眼差しが茫洋と追っていた。
食事が摂れなくなった。必要が生じるたびに水分と一緒にレーションを補給する。食事のたびに嘔吐を催した。こらえきれずに何度か便所へ駆け込んだ。藤堂の直轄とも言える四聖剣の面子は目敏いものばかりだから苦労する。卜部は聞き手に徹する振りで何度も吐瀉を嚥下した。口の中は訳が判らない。胃液で酸っぱく唾液で水っぽい。記憶の端々で見かける唾を吐き捨てる悪習を踏襲したくなる。藤堂だけが何か言いたげででも果たせない。藤堂にまとわりつく朝比奈が初めてありがたい。今の卜部が求めるのは微温い同調ではなく冷徹なほどの確立だった。微温いのは駄目だ。凍えるほど冷たくて痛くてそのくらいでなくては自分の外郭さえ判然としない。卜部の内部は徹底的に壊されて、だから外から固定して欲しかった。藤堂にありのままをぶちまける結果など明白だ。報復に走るとは思わない。藤堂は冷静で自分の立場を判っている。だから卜部をいたわるだろう。痛かったろう辛かったろう。寄り添うだけのぬくもりはあの夜の冷たいシャワーだけで十分だ。
それより、と思う。あの時こぼれたあの言葉を忘れない。藤堂中佐の情人。卜部は卜部だから襲われたのではなくて藤堂の付属物として排除されたのだ。藤堂を削ぐつもりの卜部への襲撃だ。藤堂が厭われるわけもない。依然として危うい拮抗の相手であるブリタニアは強大だ。そしてその相手に土をつけることが出来るかもしれないのは藤堂だけだ。四聖剣は別称こそいただくものの他より強力な駒でしかない。手足なのだ。要は藤堂。だから卜部の襲撃は明確に藤堂を標的にしている。削ぎ合う痛みを卜部は呑んで藤堂には素知らぬ顔で挨拶をして会話をした。それでも、交渉だけは持てなかった。のらりくらりと逃げかわし、寝台から全力で逃亡した。逃亡先は便所だ。何度か水洗の栓をひねる。つきだした舌先から灼けるような胃液がたれた。
緩慢な動きで鍵を開ける。人通りのない通路ばかり選んで歩いた。歩いていないと座り込んでしまいそうだった。傷はまだ治らない。熱を帯びたように痛んだかと思えば意識せずに過ごす日もある。ただ交渉に及ぼうとは思わなかった。不能になったとは思わないが内をさらすことに恐怖を覚えたのは初めてだった。卜部にとって藤堂が初めてではないからと思うのに、藤堂が触れた瞬間からこの体がバラバラに解けてしまうと埒もなく思っていた。俯けた視界に靴先が映る。顔を上げて戦慄した。
藤堂だ。襟まできちんと着込んだ軍服は空五倍子色で体に馴染む。鳶色の髪が額を露わにして凛とした眉筋や通った鼻梁は美しい。灰蒼に瞬く双眸や顔立ちは精悍で、そのくせ過剰な男臭さはない。豹のようだと思う。確かな破壊力と同時に美貌さえ共有する。卜部は知らずに後ずさった。靴が流れ込んだ砂礫を踏んで音をたてる。
「巧雪」
一音一音を綺麗に発音する。その音は確かな筋肉と骨格の良さの現れだ。訛りや不自然な強弱もない。卜部の喉を熱い唾液が降りていく。胃の腑で燃えるそれは吐きそうだ。
「痩せたな」
「…元々です」
沈黙した。藤堂の譲歩を卜部が拒絶したのだ。何度も同じような問答を繰り返す。傷はいいのか? 無理をしなきゃあ開きません。検査はしたか? 犬に噛まれるとは厄介だ。あんたは俺に近づかないほうがいいですよ。噛まれたくないでしょう。
不意に伸ばされた指先を卜部は跳ねるようにして避けた。触れられてなお保てるものがあると過信はしてない。卜部の体は浅ましい。だから赦しがあれば卜部の体は際限なく開いて藤堂に傷の何もかもを晒す。それだけは避けなくてはならなかった。藤堂の目が集束したと思うと見開かれた。灰蒼の瞳孔が開いていく。くらりと傾ぐ藤堂に、卜部が惑ううちに藤堂が我を取り戻す。傾いだ体は前屈みで藤堂の大きな手が顔を隠すように覆う。お前もなのか。卜部は問い返さない。
「お前も私から、離れていくのか」
意味はわからない。わからなくていい。沈黙は返答になる。藤堂は虚ろに潤んだ眼差しを向けた。灰蒼は潤みきって落涙しそうだ。それでも堪えるだけの強かを秘めた双眸は獣だ。
「卜部、すまない」
唇は開いて明瞭な音を紡ぐ。藤堂の声はいつも凛として玲瓏として震える。音を紡ぐだけの負担を見せず感じさせず、密やかに息づいた。
卜部の沈黙が何かを抉っていると気づいている。手応えさえあるそれから卜部は目を背けた。血まみれの手で傷だらけの体を守るしか術がない。
「すま、ない」
一息に踏み込まれる。藤堂の指が頤を抑える。唇が重なるだけの、それでも。卜部は爪を立てて抵抗した。藤堂は何度か吸い付くように唇を蠢かせて吸ってから離れた。
「欲深ですまないが、お前の離脱は認められない」
卜部も四聖剣と別称をいただく一翼だ。現在の戦況と危ういバランスは理解している。どんな原因であっても戦力を欠くことは出来ない。
「…判ってます。俺のことは使ってくれて構わない」
「ありがとう」
逃げるように藤堂が身を翻す。燕のように素早く未練もない。それでもその背中はお前が声をかけてくれたなら止まろうと思うと言っていて、卜部は判っていて声をかけられなかった。
ガクン、と膝が抜ける。その場へくずおれて卜部の喉が引きつる。
「――は、ぁ…あ、ぁ」
喉奥が熱い。泣き出す前兆のように理不尽で圧倒的で、けれど卜部の表層は揺らがない。咳き込むようにして背中が丸まる。荒い呼気は喉を灼く。膝をついて背を丸めて卜部は嘔吐いた。
「…ぅ、ぇ、げ…」
それでもその合間に笑う。嗤う。たった一振りの断裂の亀裂は深刻で、これこそ望まれたのかもしれないと思いながら嗤うしかない。
夢は桃源郷にしかないって解ってた
《了》